向ヶ丘遊園をブラブラしていたら、真っ白にゃんこに会いました。
前に来た時も、同じ場所で日向ぼっこしてました。
首輪してる。
かなりの老齢かな?
ちょっと緊張? お耳がピンだ
触って、、いい、、よね
許すって。
ごろにゃん
おでこの所、どうしたの?
ああ、柄ですか
グリグリ
ワタシが移動すると、にゃんこも。。。
本当にキミは真っ白だねぇ
もう気が済んだみたい
定位置に戻っていきました。
鍋猫みたい
夜、にゃんこの集会場に着くとすっ飛んでくる3匹がいて、私が座った途端に膝に乗ってきます。
最初のウチはいいけれど、重くてしびれてきたので足をO脚にしたら、
ストンと足の輪っかに落ちました。
金茶の2匹は、5月に産まれた兄弟猫。
ハチワレの黒い子は、金茶たちの従兄にあたる2才児男子で
棗は、でぶっちょで気が優しいものだから、冬は人気モノ。
他のにゃんこに敷布団代わりにされます。
猫の おしくらまんじゅう。
せっかく両国まで歩いて来たんだもの、
芥川龍之介さんに縁のある場所に足を伸ばしてみようと思います。
両国の橋のたもと
以前、芥川龍之介の『ひょっとこ』『老年』『大川の水』を読んだ時、
大川 (隅田川) と百本杭に興味を持ち、一度キッチリ歩いてみたいと思ってました。
ここが大川端
さっき歩いてきたのが、対岸の遊歩道です。
芥川さんが見た景色とはもちろん全然違っていよう。
しかし、なんとなくノスタルジックな気分になる。
へえ。
両国橋のフェンスって軍配なんだ。
両国橋の東詰 (両国側) に立て看板がありました。
両国橋と百本杭
両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川は荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。
両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。
江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。
稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台にしていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々の知られた場所だったのです。
また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。
明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭といふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。
このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
平成二十三年三月隅田川教員委員会の立て看板より
立て看板には、文人を代表し幸田露伴のことが記されていますが、
「本所向島に親しんだ多くの文人」の中には、芥川龍之介も谷崎潤一郎もいるわけで、
私は2人の作家の作品『大川の水』(芥川) 『幇間』(谷崎) で、大川端への興味を持ちました。
岡田商事 ( 旧岡田菊次郎商会 ) なかなかレトロな建物で魅了されますわ。
はす向かいには、老舗 いのしし料理の『ももんじ屋』がある。
芥川龍之介生育の地、という看板がありました。
生誕というのはよくあるが、生育というのは珍しい。
芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、明治25年 (1892) 3月1日、東京市京橋区入船八丁目一番地 ( 中央区明石町 ) に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後7ヵ月で、龍之介の実母、ふくが発狂してしまった為、当時本所区小泉町15番地 ( 両国三丁目 ) に住んでいた ふく の長兄、芥川道章に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。
芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。
明治43年 (1910) 19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校 ( 両国小学校 ) に入学しました。明治38年 (1905) 府立第三中学校 ( 両国高等学校 ) に入学、同43年成績優秀により無試験で 第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正2年東京帝国大学英文科に入学、同5年卒業しました。
大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句 ( 高浜虚子に師事 ) 、評論、随筆にも優れました。
昭和2年 (1927) に35歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。
龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。芥川龍之介生育の地の立て看板より
これが、立て看板にもある文学碑
本所のにゃんこ にゃろめみたいだ。
一旦、路地に入ったものの、呼んだらバックして出てきてくれました。
もう、自分でスリスリしてる。
いい子だ、いい子だ。
わかった、わかった。
スリスリスリ。
ツクヨミ君です
去年ここで生まれたんですが、冬に大風邪ひいて、
瀕死のところ世話人のお兄さんに引き取られ、家猫になりました。
今は、寒さも暑さも貧じさも知らぬ生活を送っているツクヨミ君だけど、
あんまり食っちゃ寝、食っちゃ寝し過ぎてメタボになっちゃったので、
運動をしにやってきた。
「ふんふん、懐かしい匂いがする」ツクヨミ
「なに~ なんかいるの~」
どやどや集まってきたのはミーシャと大和。
ミーシャと大和とツクヨミは、従妹同士です。
※ この子たちは、沙羅・ちょいと・アオイの三姉妹がそれぞれ産んだ子です。
沙羅の娘がミーシャ、ちょいとの息子が大和、アオイの息子がツクヨミ。
ツクヨミは、ミーシャ・大和より一年早く生まれた年長さん。
しかし、ここではミーシャたちが幅を利かしてます。
「おい、見かけね~奴がいるど」と大和。
「・・・なんか見てる、、、、黒いの、、、無視しよ」ツクヨミ
「な~に、アンタ、アオイ叔母ちゃんの子だって?」ミーシャ
「な な なんだぉ~」ツクヨミ
「おおうっ、やる気か?」大和
「お兄ちゃん、やっちゃえやっちゃえ」ミーシャ
「怖いよ~、早くおうちに帰えろうよ~」ツクヨミ
血は争えないものです。
子供らの上下関係は、母の世代からすでに決まっているようです。
いっちゃん むこうっぱしが強いのが沙羅→ミーシャ親子
調子いいのは、ちょいと→大和親子
臆病ものなのが、アオイ→ツクヨミ親子
わぁい、沙羅ちゃん、久しぶり~
カリカリ食べる?
「うーん、食べてあげてもいいわよ」沙羅
貴女は食べてる仕草も優雅ですね、ガッついたりしないのね。
「ほほほ、淑女だもの」沙羅
ナデナデする?
「なでなで? してもいいわよ」沙羅
じゃ、なでさせていただきます。
あらん? どこ行った?
ここに居ました。
木漏れ陽が、ちょうどスポットのように当たっているところ。
君はホントに綺麗だねぇ
毛並みも艶々なのは健康な証拠
お手入れだって、念入りなのね
「そうよ、ムグググ」
あら、今度はどこに?
ああ、なるほど。
木漏れ陽が移動したから、あなたも移動したのか。
ライトいっぱい浴びて、まるで映画スター。
サンセット大通りの、大女優-ノーマ・デズモンドみたいだ。